ネッド・ケリー

ガッデム特派員

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メルボルン出身の歴史的な有名人といえば、ネッド・ケリーの名が浮かびます。私が、初めてケリーを知ったのは、オーストラリアの首都キャンベラにある美術館で、メルボルン出身の画家、シドニー・ノーランの「ネッド・ケリー」シリーズの絵を、何作か見たのがきっかけでした。

絵の中に必ず登場する、ケリーの象徴とも言える黒い円筒の鎧が印象的で、
盗賊だったケリーが、今もなお、オーストラリア人に愛され続けている理由が知りたくて、ケリーの生涯を調べると、たいへん興味深い歴史的背景が見えてきました。

ケリーが生まれたのは、1855年。その頃のビクトリア州は、地主と小農民(セレクター)との貧富の差が激しく、貧しさから窃盗を働く農民が多出しました。ケリー家も、その貧しい小農民の典型で、父親は、家畜窃盗罪で服役していた元囚人だったため、常に、警察からマークされていたようです。

ここでポイントなのは、警察が、ケリー家のような社会的弱者である貧困農民層を不正に扱った点です。というのも、警察には、富裕層である地主がバックにいて、家畜強盗を捕まえると、高い懸賞金を受け取ることができたのです。懸賞金目当てで逮捕するのですから、ケリーのような前科のある一族出身者だと、濡れ衣を着せやすかったのでしょう。

実際、ケリーは、16歳のときに、犯人はケリーの知人であったにもかかわらず、警察にはめられ、馬の強盗犯として3年間も投獄されてしまいます。大切な思春期に、無実で服役させられたケリーが、警察を憎むようになるのも当然です。刑期を終え出所したケリーは、しばらくして、再び犯罪に手を染めるようになり、警察との対立を深めていきます。

さて、ケリーがその後、どのように富裕層及び警察から恐れられる一方で、民衆とりわけ貧困農民層には賞賛される社会的な盗賊になっていったのか?

現在、旧メルボルン監獄にて、ケリーのデスマスクが展示されていることでも分かるように、最期は、警察に捕らえられ、ここで絞首刑が執行されました。享年26歳でした。

残念な結果になったとはいえ、ケリーの死をきっかけに、警察と民衆との確執は見直され、改善されていったというのですから、彼の影響は、大きかったということですね。

この記事を書いた人

ガッデム特派員 - ライター

シドニー滞在歴数十年。行ったことある国や都市で特に好きなところは:ボストン、ニューヨーク,リオン、パリ、ジュネーブ、ハワイ、西内まりや、バンコク、カンボジア、インド、ネパール、バリ、シンガポール、クイーンズタウン、トロント、ハミルトン島

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